〜石化病〜
「ーー何、それじゃお前さんがカジキか!!」
誤解を解いた(まあ誤解するのも無理はなかったが)ホロウたちは、気味の悪い人体模型の前で老人――ガスパと話をしていた。
「う、うう〜む……聞いていたより少し、いや、だいぶ若いのう。東洋人は童顔が多いと聞いたが、そんな程度じゃない気が」
「……若い?」
ホロウはカジキを見て首を傾げた。
カジキは顔つきから見ても、また体格から考えてもホロウと同年代のようだった。
しかし、実際にそれを彼の口から確かめたことはない。
「あんた、いくつなの?」
「まあ、その話は置いておくとして」
露骨に話題を変えられてしまう。
「ルアブレを見てもらいに来たんだ」
彼が懐から取り出したのはボロボロになった一枚の便せんだった。
その紙切れを見たガスパの表情が玩具を見つけた子供のように破顔する。
「おおっ、そうじゃそうじゃ、なるほど、上手く組み立てられたようじゃな。さすがはワシが設計しただけはある。素人が組んでも完璧な造形じゃわい」
カジキが作業台の上に置いたルアーブレードを鞘から抜き取り、ガスパは目を爛々と輝かせながら舐め回すように各部のチェックをし始める。
「……ねえ」
ホロウはカジキに耳打ちした。
「あれどうしたの?」
「さあ、頭がおかしいんだろ」
「いや、そっちじゃなくて。ルアーブレードのこと。博士とは初めて会ったんでしょ? じゃあどうやって手に入れたのよ」
ルアーブレードを作ったのは彼のようだし、それではカジキが手に入れようがないではないか。
「送ってもらったんだよ」
ルアーブレードは大きく三つのパーツから成り立っている。
一つはブレード部分。
二つ目は持ち手を兼ねたロッド部分。
そして巻き取りリールのある機能部分だ。
これらは基本的な工具でいつでも分解組み立てが可能で、カジキはパーツごとにバラされて送られて来たものを組み立てたのだと言う。
「じゃがさっそくぶっ壊してるのお! ちょっと待ってろ。ちょちょいっと修理してやる」
ガスパは鼻息を荒くしながら嬉々としてルアーブレードを解体し始める。
「頼むよ。ついでにブレードも新しいのに交換で」
「なんじゃと!?」
「ブレードの推進装置があるだろ? あれ、刃へのダメージもでかいんだよ。もうほとんど切れなくなってる」
「……金貨10枚で手を打ってやる」
「OK 商談成立ってことで――」
カジキがそのように言いかけた時、
「爺さんいるか!?」
階段上にある入り口からけたたましい声が聞こえて来た。
「今度はなんじゃ!?」
せっかくの楽しみを邪魔され、ガスパは憤慨する。
階段を下る音が近づいてくる。石壁の向こうから顔を出したのは浅い色の綿の服を纏った農家風の青年だった。彼はガスパの顔を見るなり駆け寄ってくる。
「よかった! うちの村の奴が変な毒にやられたみたいなんだよ!」
「お門違いじゃ! 医者に見せろ医者に!」
確かにな、とホロウも相槌を打った。
「無理なんだよ。どうにもならねえって言われたんだ! なあ、怪しげな発明でなんとかなんねーか!?」
青年は今にも泣き出しような表情をしながらガスパにしがみつき、何度も「頼む、頼む」と懇願していた。
「……おい、修理はこの後に回すぞ」
青年の必死さに根負けしたのか、はたまた本当は人の良い性格なのか、ガスパは定規を杖代わりにして立ち上がった。
「別にいいさ。その話、俺も気になるしね」
そう言ってカジキは肩をすくめると、ガスパに続くように腰掛けていたテーブルから飛び下りた。
慌ててホロウもその後を追う。
その病人が運び込まれたというのはエゾキアの商業区の反対側――石造りの民家が建ち並ぶ比較的閑静な場所の中にある診療所だった。道の中央に小さな水汲み場があり、その迎い側に存在しているのだ。
青いペンキの塗られたドアをくぐると呼び鈴が鳴る。
中に入ってまず見えるのは患者用の待合室だ。馬車二台分ほどのこじんまりとした空間に、使い古された木の長椅子が二つ向かい合わせに配置されている。
待合室に人はいなく、代わりに奥の診療室が騒がしい。
診療室の方は清潔を保つためか、内装の木材に白いペンキによる彩色が施されていた。部屋の隅にはベッドが一つあり、その周りを取り囲むようにして医者や付き添いの男が患者を見守っている。
「ガスパさん?」
青と金の身なりをした医者の男が眉根をひそめる。
「原因はなんじゃ、毒草か?」
ガスパは部屋に入り込むなり、ベッドで小さな呼吸を繰り返す若者を覗き込んだ。
ホロウもまたその患者の様子を見て……息をのんだ。
彼の体は灰色に変色しており、皮膚は硬化し、所々がひび割れ、そこから出血している。
「こんな症状の毒草なんて聞いたことがありませんよ」
医者は大きく頭を振った。
「なんとかならんのか!?」
この中では歳のいっている男――患者の村の村長だと名乗る男が悲壮な面持ちを浮かべてガスパを頼ってくる。
「ええいっ、どけっ、どかんか!」
ガスパは定規で男を叩くと、ローブの内側からルーペを取り出し、患者の硬化した肌を観察しだした。
「なんじゃこれは……細胞が壊死しているわけでもない。まるで有機物が無機物に変化していく過程を見せつけられているかのようじゃ」
「…………コカトリスだ」
その場にいた全員の視線が、不意に言葉をこぼしたカジキへと注がれた。
「コカトリスって生き物がいるらしい。この本にそう書かれてる」
そう言ってカジキがデスクの上に投げ出したのは、船旅の間、彼がずっと読みふけっていた書物だった。焦げ茶色の表紙に金色の文字でタイトルと著者名が書かれている。
「コカトリス……石化病のコカトリスか!?」
ガスパはにわかには信じがたいという目をしていた。他方で、カジキとガスパ意外の人間にはそのコカトリスというものが何なのかが理解できていない。もちろん、ホロウもさっぱりだった。
「まさかのう……そんなものが実在したとは思わんかったが」
「ねえ、なんなのそのコカトリスって?」
ホロウはみんなの疑問を代弁するかのように訊ねた。
「飛べない鳥。保存食作りのコカトリス。伝記の中の怪物さ。冒険家ゲオルグ・チェレスコフによれば、稀に深い森の中から迷い出ることがあるらしい。夜行性の鳥類で、闇にまぎれて獲物を襲う。全長六メートル、全高は三メートル、何よりの特徴は口から吐き出す毒の息で、こいつを吸い込んだ生き物は全身が石みたいに硬化して、3日の内に死に至る……ってこいつには書かれてる。ある部族の伝承じゃ、コカトリスはそうやって保存食を確保するらしいぜ」
「……どういうこと?」
「皮膚を石みたいに固めとけば、中の肉は柔らかいままってことさ」
カジキの左目が怪しげに光る。
その話を聞いたホロウは寒気を感じて肩を震わせた。
「ま、間違いねえ!」
ガスパの研究室にやってきた青年が血の引いた顔をしながら錯乱したように叫んだ。
「そいつだ! おれも見たんだ! 馬鹿でかい鳥の怪物だった! あ、あいつに追いかけられて、気づいたら……!!」
泣き崩れてしまった青年を村長が気遣う。
「仮にコカトリスじゃったとして、やられてからどのくらい経った?」
「彼がうちに運ばれて来たのは夜の8時前でした。そこから考えると、大体ですが17時間は経っているかと」
そうなると猶予は三日……いや、ひょっとするともっと短いかもわからない。
ホロウはジワジワと染み込んでくる不安に腕を抱えながら、短い呼吸を繰り返す青年を見つめた。
「毒……なんでしょ。だったら、何か薬があるんじゃないの?」
彼女が思い出していたのは、幼いころエイに刺された時のことだ。刺された腕から毒が入り、まだ九歳だったホロウは堪え難い痛みに大泣きした。そこに父が駆けつけ、すぐに熱めのお湯を用意して彼女の腕を浸したのだ。すると不思議なことに、焼けただれそうな痛みが引いて行ったのである。後に父に聞いた話では、エイの毒はお湯に浸けることで効力が和らぐということだった。
だから、コカトリスの毒にもきっと何か対処法があるはずだと考えたのだ。
「血清を作れば……なんとかなるかもしれません」
眉間に深いしわを寄せて話を聞いていた医者が思い出したように口を開いた。
「それしかないようじゃのう。作成環境はワシの研究室にあるが……問題は抗体入りの血液じゃ」
「け、血液って……何のだよ……?」
床にふさぎ込んでしまっていた青年が恐る恐る顔をあげる。しかし、彼はその答えに気づいている様子だった。
「バカモンが! 決まっとるじゃろう! コカトリスの血じゃ!!」
「無理だッ!!!」
ワアッと絶叫し、彼は何度も何度も床を拳で殴りつける。
「あんなバケモンに勝てるわけねえだろ!? おれたちゃただの農民なんだぞ!!」
「なら此奴(こやつ)を見捨てるっちゅーんじゃな」
「そんなこと言ってねえだろ!! 言ってねえけどッ!! でも! どうやりゃいいんだよ!? わっかんねえよ……!」
彼はよほど床に伏した青年と仲が良かったのだろう。
助けたい。
でも何もできない。
自分の非力さに嘆くことしかできない。
その辛さ、苦しさが、今のホロウにはこれ以上ないほどに理解できた。
「……討伐隊とか、組織できないの? ディーミアだと、害獣が出ると腕に自身のある人たちが狩りに出ていたわ。この街、衛兵とかいるじゃない」
「コカトリスが出ると聞いて信じる奴、信じたとして行こうと思う奴がどれだけいるかじゃな。熊を狩りに行くと言って同行する奴なんておらんじゃろ? ましてバケモノとなればなおさら……」
「じゃあ、あたしが行くわ」
ギョッとして皆が目を剥いた。
「うれしいけど……でも、君みたいな女の子じゃ無理だって。殺されに行くようなもんだ」
そうだそうだと誰もが首を縦に振る。
そんなことは言われなくたってわかっている。
でも、この場にはいるのだ。
たった一人だけ、たった一人の力で恐ろしい怪物に戦いを挑むことのできる者が。
「カジキ、もちろん行くんでしょ」
確認を取るように問う。
話を振られたカジキは一瞬キョトンと左目を丸めた後、ボサボサと逆立った黒髪を掻いた。
「別にいいよ。でも、報酬はいただくぜ? そうだな、金貨15枚で手を打つよ」
彼が自信たっぷりに答えると、しかし村長は苦い顔を見せる。
「何を言っているんだ。君だってそこの子と変わらんだろう。子供がでしゃばるようなことじゃない」
「いや、此奴しかおらん。見てくれはガキだが、凄腕のカリュードじゃ」
誰もがガスパの言葉をうさん臭そうに聞いていたが、疑っていても始まらないし、何よりも時間がなかった。
ホロウたちはすぐに農村――《オレアン》への馬車に乗り込んだ。
エゾキアからオレアンまでは片道で10時間かかる。ルアーブレードを組み直している余裕はなく、カジキは短剣二本という心もとない装備で向かわなければならなくなった。
そのことに関して彼は、
「別にどうでもいいさ。足りなかったら現地で作るし」
とのことだ。
馬車の荷車は小さく、二人が乗り込んだだけでも余分なスペースがなくなってしまった。
御者を勤めたのは村の長だった。あの青年は患者の下に残してきた。患者の容態も心配だったし……何よりも彼の精神状態ではコカトリスとの戦いに備えられるとは思えなかった。
「別にお金なんていらないでしょ。人が死にそうだって時に……」
村までの移動の最中、ホロウは先ほどカジキが出した交換条件を咎めた。
人の命を金で買うかのような気がしたからだ。
「おいおい」
ところが、カジキは信じられないといった風に幾分か声を荒げる。
「こっちだって命がかかってるんだぜ? 見ず知らずの人間のために、ただで身を投げ出すなんてまさかだろ。それこそ、命を粗末にするってもんさ。生んでくれた親に申し訳ないと思わないのか?」
彼の言っていたことは普通に聞けば人道的ではなく、ともすれば反社会的なことなのだが、どういうわけかいつも一理あるのが癪に障る。
彼はそれっきり黙り込み、再び本を熟読し始めてしまった。
チラリと覗いたのだが、彼が読んでいたのはコカトリスに関するページのようだ。
馬車に乗って半刻もすると、猫が這い出る隙間もないほど密集していた石造りの建物はまばらになっていった。建物を構成する建材は徐々に石から木材へと変化して行き、そのほとんどが平屋だ。だがそれもある時を境に完全に消え失せ、代わりに大草原とどこまでも続く一本の道だけが現れた。
「すごい! 緑が豊かなのね」
ホロウは感動して荷車から上半身を乗り出した。
涼しく甘い香りのする風が鼻先を吹き抜けて行く。
「君たちはどこからきたんだい」
未だに若干顔つきの険しい村長が背後を振り返りながら訊ねてきた。手は手綱を握りしめたままだ。
「ディーミアよ。大陸の……ちょっと向こうの方」
「ディーミア? 変わった名前だ」
確かに、この地方の語感や発音とは少し違うかもしれない。
「この辺りの自然は豊かだが、深い森も多い。危険な動物もな。そういったものが未だに開拓の足を止めているんだよ」
危険な動物……それを聞き、ホロウは自分の周囲を見回した。
見渡す限りの若草色、そして蒼空が広がっていた。
そんな彼女の挙動をおかしく感じたのか、村長は苦笑する。
「ハハハッ、ここにはいない。《ゼノスの火》には、野生の生き物は近づかんよ。そう……そのはずだったんだが」
「ゼノスの火……」
ゼノスの火というのは野生の動物を遠ざける効果をもつ特別な紅い炎のことだった。教会曰く、それはゼノスと呼ばれる天使たちによって地上にもたらされたものらしい。ドラゴンをはじめとした凶悪な怪物たちで溢れかえったこの世界で、人が安心して眠れるようにと。
ホロウは眉根を寄せて道の端に備え付けられた街灯を見つめた。
今まで当然のことと思っていたが、よくよく考えてみると不思議なことだった。
全ての町や村、そして国道にはこのゼノスの火が灯っている。それは水をかけたり、揉消すことはできたが、自然には消えづらいという奇妙な炎だった。だからたいていの場合、このようにガラスと鉄で囲った灯籠のなかに燃焼物のオイルとともに閉じ込められている。オイル自体は劣化してしまうので定期的な交換が必要だったが、それでも拳一つほどの量で丸一年は燃え続けるのである。
この炎は、もちろんディーミアにも灯っていた。町の四方を囲んでいるだけで、あらかたの獣は町を避けて通った。
ただし……。
「火は絶対じゃないわ。効かないときは効かないのよ」
実際、あのリヴァイアサンは町を襲撃した。それ以前にも、腹を空かせた熊や野犬が迷い込むこともあった。ゼノスの火は獣を遠ざける効果を持っていたが、絶対にはねのける結界ではない。怒り狂った相手や、空腹に耐えかねた相手には通じなかった。
「……ああ、そうだな」
「コカトリスの被害って、今までになかったの?」
そんなバケモノがうろついているのなら、被害の前例があっても良さそうなものなのだが。
「見たことがない。その名前さえ初めて聞いた」
オレアンの付近には未開拓の深い森があったが、今までに一度として大型の獣が出たことはないという。住んでいるのはウサギやリスといった人の害にならない生き物だけで、肉食の生き物もたまに迷い出てくる狐くらいのものだと。
「本当に平和なところだったのね」
ホロウは少し羨ましく思いながら相槌を打った。
「……」
ふと、寝転がっているカジキを見やると、彼は何か思案しているような表情を見せていた。が、それも束の間のことで、すぐに興味をなくしてそっぽを向くと、両腕を頭の後ろで組んで昼寝をし始めてしまった。
相変わらず何がしたいのかさっぱりわからない。
ホロウは延々と続くのどかな道を眺めながら、あくびを一つした。
誤解を解いた(まあ誤解するのも無理はなかったが)ホロウたちは、気味の悪い人体模型の前で老人――ガスパと話をしていた。
「う、うう〜む……聞いていたより少し、いや、だいぶ若いのう。東洋人は童顔が多いと聞いたが、そんな程度じゃない気が」
「……若い?」
ホロウはカジキを見て首を傾げた。
カジキは顔つきから見ても、また体格から考えてもホロウと同年代のようだった。
しかし、実際にそれを彼の口から確かめたことはない。
「あんた、いくつなの?」
「まあ、その話は置いておくとして」
露骨に話題を変えられてしまう。
「ルアブレを見てもらいに来たんだ」
彼が懐から取り出したのはボロボロになった一枚の便せんだった。
その紙切れを見たガスパの表情が玩具を見つけた子供のように破顔する。
「おおっ、そうじゃそうじゃ、なるほど、上手く組み立てられたようじゃな。さすがはワシが設計しただけはある。素人が組んでも完璧な造形じゃわい」
カジキが作業台の上に置いたルアーブレードを鞘から抜き取り、ガスパは目を爛々と輝かせながら舐め回すように各部のチェックをし始める。
「……ねえ」
ホロウはカジキに耳打ちした。
「あれどうしたの?」
「さあ、頭がおかしいんだろ」
「いや、そっちじゃなくて。ルアーブレードのこと。博士とは初めて会ったんでしょ? じゃあどうやって手に入れたのよ」
ルアーブレードを作ったのは彼のようだし、それではカジキが手に入れようがないではないか。
「送ってもらったんだよ」
ルアーブレードは大きく三つのパーツから成り立っている。
一つはブレード部分。
二つ目は持ち手を兼ねたロッド部分。
そして巻き取りリールのある機能部分だ。
これらは基本的な工具でいつでも分解組み立てが可能で、カジキはパーツごとにバラされて送られて来たものを組み立てたのだと言う。
「じゃがさっそくぶっ壊してるのお! ちょっと待ってろ。ちょちょいっと修理してやる」
ガスパは鼻息を荒くしながら嬉々としてルアーブレードを解体し始める。
「頼むよ。ついでにブレードも新しいのに交換で」
「なんじゃと!?」
「ブレードの推進装置があるだろ? あれ、刃へのダメージもでかいんだよ。もうほとんど切れなくなってる」
「……金貨10枚で手を打ってやる」
「OK 商談成立ってことで――」
カジキがそのように言いかけた時、
「爺さんいるか!?」
階段上にある入り口からけたたましい声が聞こえて来た。
「今度はなんじゃ!?」
せっかくの楽しみを邪魔され、ガスパは憤慨する。
階段を下る音が近づいてくる。石壁の向こうから顔を出したのは浅い色の綿の服を纏った農家風の青年だった。彼はガスパの顔を見るなり駆け寄ってくる。
「よかった! うちの村の奴が変な毒にやられたみたいなんだよ!」
「お門違いじゃ! 医者に見せろ医者に!」
確かにな、とホロウも相槌を打った。
「無理なんだよ。どうにもならねえって言われたんだ! なあ、怪しげな発明でなんとかなんねーか!?」
青年は今にも泣き出しような表情をしながらガスパにしがみつき、何度も「頼む、頼む」と懇願していた。
「……おい、修理はこの後に回すぞ」
青年の必死さに根負けしたのか、はたまた本当は人の良い性格なのか、ガスパは定規を杖代わりにして立ち上がった。
「別にいいさ。その話、俺も気になるしね」
そう言ってカジキは肩をすくめると、ガスパに続くように腰掛けていたテーブルから飛び下りた。
慌ててホロウもその後を追う。
その病人が運び込まれたというのはエゾキアの商業区の反対側――石造りの民家が建ち並ぶ比較的閑静な場所の中にある診療所だった。道の中央に小さな水汲み場があり、その迎い側に存在しているのだ。
青いペンキの塗られたドアをくぐると呼び鈴が鳴る。
中に入ってまず見えるのは患者用の待合室だ。馬車二台分ほどのこじんまりとした空間に、使い古された木の長椅子が二つ向かい合わせに配置されている。
待合室に人はいなく、代わりに奥の診療室が騒がしい。
診療室の方は清潔を保つためか、内装の木材に白いペンキによる彩色が施されていた。部屋の隅にはベッドが一つあり、その周りを取り囲むようにして医者や付き添いの男が患者を見守っている。
「ガスパさん?」
青と金の身なりをした医者の男が眉根をひそめる。
「原因はなんじゃ、毒草か?」
ガスパは部屋に入り込むなり、ベッドで小さな呼吸を繰り返す若者を覗き込んだ。
ホロウもまたその患者の様子を見て……息をのんだ。
彼の体は灰色に変色しており、皮膚は硬化し、所々がひび割れ、そこから出血している。
「こんな症状の毒草なんて聞いたことがありませんよ」
医者は大きく頭を振った。
「なんとかならんのか!?」
この中では歳のいっている男――患者の村の村長だと名乗る男が悲壮な面持ちを浮かべてガスパを頼ってくる。
「ええいっ、どけっ、どかんか!」
ガスパは定規で男を叩くと、ローブの内側からルーペを取り出し、患者の硬化した肌を観察しだした。
「なんじゃこれは……細胞が壊死しているわけでもない。まるで有機物が無機物に変化していく過程を見せつけられているかのようじゃ」
「…………コカトリスだ」
その場にいた全員の視線が、不意に言葉をこぼしたカジキへと注がれた。
「コカトリスって生き物がいるらしい。この本にそう書かれてる」
そう言ってカジキがデスクの上に投げ出したのは、船旅の間、彼がずっと読みふけっていた書物だった。焦げ茶色の表紙に金色の文字でタイトルと著者名が書かれている。
「コカトリス……石化病のコカトリスか!?」
ガスパはにわかには信じがたいという目をしていた。他方で、カジキとガスパ意外の人間にはそのコカトリスというものが何なのかが理解できていない。もちろん、ホロウもさっぱりだった。
「まさかのう……そんなものが実在したとは思わんかったが」
「ねえ、なんなのそのコカトリスって?」
ホロウはみんなの疑問を代弁するかのように訊ねた。
「飛べない鳥。保存食作りのコカトリス。伝記の中の怪物さ。冒険家ゲオルグ・チェレスコフによれば、稀に深い森の中から迷い出ることがあるらしい。夜行性の鳥類で、闇にまぎれて獲物を襲う。全長六メートル、全高は三メートル、何よりの特徴は口から吐き出す毒の息で、こいつを吸い込んだ生き物は全身が石みたいに硬化して、3日の内に死に至る……ってこいつには書かれてる。ある部族の伝承じゃ、コカトリスはそうやって保存食を確保するらしいぜ」
「……どういうこと?」
「皮膚を石みたいに固めとけば、中の肉は柔らかいままってことさ」
カジキの左目が怪しげに光る。
その話を聞いたホロウは寒気を感じて肩を震わせた。
「ま、間違いねえ!」
ガスパの研究室にやってきた青年が血の引いた顔をしながら錯乱したように叫んだ。
「そいつだ! おれも見たんだ! 馬鹿でかい鳥の怪物だった! あ、あいつに追いかけられて、気づいたら……!!」
泣き崩れてしまった青年を村長が気遣う。
「仮にコカトリスじゃったとして、やられてからどのくらい経った?」
「彼がうちに運ばれて来たのは夜の8時前でした。そこから考えると、大体ですが17時間は経っているかと」
そうなると猶予は三日……いや、ひょっとするともっと短いかもわからない。
ホロウはジワジワと染み込んでくる不安に腕を抱えながら、短い呼吸を繰り返す青年を見つめた。
「毒……なんでしょ。だったら、何か薬があるんじゃないの?」
彼女が思い出していたのは、幼いころエイに刺された時のことだ。刺された腕から毒が入り、まだ九歳だったホロウは堪え難い痛みに大泣きした。そこに父が駆けつけ、すぐに熱めのお湯を用意して彼女の腕を浸したのだ。すると不思議なことに、焼けただれそうな痛みが引いて行ったのである。後に父に聞いた話では、エイの毒はお湯に浸けることで効力が和らぐということだった。
だから、コカトリスの毒にもきっと何か対処法があるはずだと考えたのだ。
「血清を作れば……なんとかなるかもしれません」
眉間に深いしわを寄せて話を聞いていた医者が思い出したように口を開いた。
「それしかないようじゃのう。作成環境はワシの研究室にあるが……問題は抗体入りの血液じゃ」
「け、血液って……何のだよ……?」
床にふさぎ込んでしまっていた青年が恐る恐る顔をあげる。しかし、彼はその答えに気づいている様子だった。
「バカモンが! 決まっとるじゃろう! コカトリスの血じゃ!!」
「無理だッ!!!」
ワアッと絶叫し、彼は何度も何度も床を拳で殴りつける。
「あんなバケモンに勝てるわけねえだろ!? おれたちゃただの農民なんだぞ!!」
「なら此奴(こやつ)を見捨てるっちゅーんじゃな」
「そんなこと言ってねえだろ!! 言ってねえけどッ!! でも! どうやりゃいいんだよ!? わっかんねえよ……!」
彼はよほど床に伏した青年と仲が良かったのだろう。
助けたい。
でも何もできない。
自分の非力さに嘆くことしかできない。
その辛さ、苦しさが、今のホロウにはこれ以上ないほどに理解できた。
「……討伐隊とか、組織できないの? ディーミアだと、害獣が出ると腕に自身のある人たちが狩りに出ていたわ。この街、衛兵とかいるじゃない」
「コカトリスが出ると聞いて信じる奴、信じたとして行こうと思う奴がどれだけいるかじゃな。熊を狩りに行くと言って同行する奴なんておらんじゃろ? ましてバケモノとなればなおさら……」
「じゃあ、あたしが行くわ」
ギョッとして皆が目を剥いた。
「うれしいけど……でも、君みたいな女の子じゃ無理だって。殺されに行くようなもんだ」
そうだそうだと誰もが首を縦に振る。
そんなことは言われなくたってわかっている。
でも、この場にはいるのだ。
たった一人だけ、たった一人の力で恐ろしい怪物に戦いを挑むことのできる者が。
「カジキ、もちろん行くんでしょ」
確認を取るように問う。
話を振られたカジキは一瞬キョトンと左目を丸めた後、ボサボサと逆立った黒髪を掻いた。
「別にいいよ。でも、報酬はいただくぜ? そうだな、金貨15枚で手を打つよ」
彼が自信たっぷりに答えると、しかし村長は苦い顔を見せる。
「何を言っているんだ。君だってそこの子と変わらんだろう。子供がでしゃばるようなことじゃない」
「いや、此奴しかおらん。見てくれはガキだが、凄腕のカリュードじゃ」
誰もがガスパの言葉をうさん臭そうに聞いていたが、疑っていても始まらないし、何よりも時間がなかった。
ホロウたちはすぐに農村――《オレアン》への馬車に乗り込んだ。
エゾキアからオレアンまでは片道で10時間かかる。ルアーブレードを組み直している余裕はなく、カジキは短剣二本という心もとない装備で向かわなければならなくなった。
そのことに関して彼は、
「別にどうでもいいさ。足りなかったら現地で作るし」
とのことだ。
馬車の荷車は小さく、二人が乗り込んだだけでも余分なスペースがなくなってしまった。
御者を勤めたのは村の長だった。あの青年は患者の下に残してきた。患者の容態も心配だったし……何よりも彼の精神状態ではコカトリスとの戦いに備えられるとは思えなかった。
「別にお金なんていらないでしょ。人が死にそうだって時に……」
村までの移動の最中、ホロウは先ほどカジキが出した交換条件を咎めた。
人の命を金で買うかのような気がしたからだ。
「おいおい」
ところが、カジキは信じられないといった風に幾分か声を荒げる。
「こっちだって命がかかってるんだぜ? 見ず知らずの人間のために、ただで身を投げ出すなんてまさかだろ。それこそ、命を粗末にするってもんさ。生んでくれた親に申し訳ないと思わないのか?」
彼の言っていたことは普通に聞けば人道的ではなく、ともすれば反社会的なことなのだが、どういうわけかいつも一理あるのが癪に障る。
彼はそれっきり黙り込み、再び本を熟読し始めてしまった。
チラリと覗いたのだが、彼が読んでいたのはコカトリスに関するページのようだ。
馬車に乗って半刻もすると、猫が這い出る隙間もないほど密集していた石造りの建物はまばらになっていった。建物を構成する建材は徐々に石から木材へと変化して行き、そのほとんどが平屋だ。だがそれもある時を境に完全に消え失せ、代わりに大草原とどこまでも続く一本の道だけが現れた。
「すごい! 緑が豊かなのね」
ホロウは感動して荷車から上半身を乗り出した。
涼しく甘い香りのする風が鼻先を吹き抜けて行く。
「君たちはどこからきたんだい」
未だに若干顔つきの険しい村長が背後を振り返りながら訊ねてきた。手は手綱を握りしめたままだ。
「ディーミアよ。大陸の……ちょっと向こうの方」
「ディーミア? 変わった名前だ」
確かに、この地方の語感や発音とは少し違うかもしれない。
「この辺りの自然は豊かだが、深い森も多い。危険な動物もな。そういったものが未だに開拓の足を止めているんだよ」
危険な動物……それを聞き、ホロウは自分の周囲を見回した。
見渡す限りの若草色、そして蒼空が広がっていた。
そんな彼女の挙動をおかしく感じたのか、村長は苦笑する。
「ハハハッ、ここにはいない。《ゼノスの火》には、野生の生き物は近づかんよ。そう……そのはずだったんだが」
「ゼノスの火……」
ゼノスの火というのは野生の動物を遠ざける効果をもつ特別な紅い炎のことだった。教会曰く、それはゼノスと呼ばれる天使たちによって地上にもたらされたものらしい。ドラゴンをはじめとした凶悪な怪物たちで溢れかえったこの世界で、人が安心して眠れるようにと。
ホロウは眉根を寄せて道の端に備え付けられた街灯を見つめた。
今まで当然のことと思っていたが、よくよく考えてみると不思議なことだった。
全ての町や村、そして国道にはこのゼノスの火が灯っている。それは水をかけたり、揉消すことはできたが、自然には消えづらいという奇妙な炎だった。だからたいていの場合、このようにガラスと鉄で囲った灯籠のなかに燃焼物のオイルとともに閉じ込められている。オイル自体は劣化してしまうので定期的な交換が必要だったが、それでも拳一つほどの量で丸一年は燃え続けるのである。
この炎は、もちろんディーミアにも灯っていた。町の四方を囲んでいるだけで、あらかたの獣は町を避けて通った。
ただし……。
「火は絶対じゃないわ。効かないときは効かないのよ」
実際、あのリヴァイアサンは町を襲撃した。それ以前にも、腹を空かせた熊や野犬が迷い込むこともあった。ゼノスの火は獣を遠ざける効果を持っていたが、絶対にはねのける結界ではない。怒り狂った相手や、空腹に耐えかねた相手には通じなかった。
「……ああ、そうだな」
「コカトリスの被害って、今までになかったの?」
そんなバケモノがうろついているのなら、被害の前例があっても良さそうなものなのだが。
「見たことがない。その名前さえ初めて聞いた」
オレアンの付近には未開拓の深い森があったが、今までに一度として大型の獣が出たことはないという。住んでいるのはウサギやリスといった人の害にならない生き物だけで、肉食の生き物もたまに迷い出てくる狐くらいのものだと。
「本当に平和なところだったのね」
ホロウは少し羨ましく思いながら相槌を打った。
「……」
ふと、寝転がっているカジキを見やると、彼は何か思案しているような表情を見せていた。が、それも束の間のことで、すぐに興味をなくしてそっぽを向くと、両腕を頭の後ろで組んで昼寝をし始めてしまった。
相変わらず何がしたいのかさっぱりわからない。
ホロウは延々と続くのどかな道を眺めながら、あくびを一つした。