〜エゾキア〜

 

 無限に続くかとも思われた船旅がようやく終わろうとしていた。
 ホロウは甲板の手すりに肘をつくと、胃の中のムカムカを吐き出すようにして大きくため息をついた。

 ディーミアを出航してから一週間が経つが、ここ三日間くらいはずっと乾いた肉とパンばかりを食べている。ワインもあったが、あれは飲むと余計にのどが乾く。
 最初のうちは良かった。ディーミアで詰め込んだ新鮮な魚介類や野菜であふれていた。ところがそれも航海の前半ですべて食べ尽くしてしまい、今やカビ臭い干し肉があふれるだけだ。
「さいあく……」
 波には慣れていたが、船旅がここまでキツイものだとは思ってもみなかった。主に食料面の事情が酷すぎる。
 うつむいて海を眺める。どこかにイルカかクジラでもいないものかと。
 まあ、そのような海洋生物はなかなかお目にかかれるものではなかった。反面、頭上では先ほどからやかましい海鳥がホロウをバカにするように鳴き喚いている。
 船は毎時時速30キロほどで海を駆けていた。これはかなりの速度であり、通常の帆船に出せるものではない。船長の話によると、この船には最新の機械技術が組み込まれており、その力を補助として動いているらしかった。
「嬢ちゃん、気分はどうだい」
 噂をすれば影だ。
 ふさふさの白いヒゲを蓄えた船長が、酒の注がれた杯を片手にやってくる。
「さいてい。マズいご飯も、酔っぱらいの臭い息も」
 にらみつけるようにして文句を言ってやると、しかし船長は目を細めながら豪快に笑った。
「そうかそうか、それはけっこう! いや、正直カジキの野郎が連れて来たときには、どんなバケモノかと冷や汗もんだったぜ」
「……」
 カジキ。
 ホロウをこの旅に赴かせることになった元凶の名前だ。
 彼とはこの船に乗った日からあまり顔を合わせてはいなかった。というのも、彼は一人になると日がな一日本を読みふけり、話しかけても適当な相槌しか打たなかったので、自然と声をかけることがなくなっていったのである。
(まあ、あたしとしては好都合だけどね)
「ねえ、船長とあいつって前からの知り合いなの?」
 話を聞いているとどうもそのような感じだった。
「んんん? 前ってほどでもねーな。話には聞いちゃいたが、実際に会ったのは二ヶ月前よ。ちょうど隣の大陸に行ったときだな」
「話?」
「おお、あいつとおれたちには共通の知り合いがいてな。《ガスパ》っつうキチガ……偏屈科学者でよ、この船の動力機関とか、あいつのルアブレとかもその科学者の作品ってわけよ」
「……ルアーブレード」
 全長180センチにもなる巨大な剣。人の身で扱うことなど到底不可能なそれは、刀身を疑似餌のように投擲して用いる奇妙な武器だった。
 それを作った人間がいる。
 あんなものを使える人間も異常だったが、それを作った人間も同じくらいに頭がおかしいだろう。
 世の中にはいろんなひとがいるのだなあ、とホロウは白い雲を見上げながら呑気に考えた。
 ふと、青一面だった視界にぼんやりと赤が浮かび上がった。
 はるか遠方に、巨大な都市の影が浮かんでいる。
「陸が見えたぞおおお!!」
 マストの上の見張り台に立っていた船員が、割れるような大声を出した。
 巨大貿易都市《エゾキア》。
 世界有数の外来船停泊数を誇る《グラントリア帝国》の玄関口である。
 世界各国から様々な物品が集まるこの街は、まさに無限の色と形で構成されていた。良く言えば他民族風、悪く言えばごちゃ混ぜ。際限なく行き交う人々は様々な言葉を遣い、海岸沿いから陸部に向かって積み重なった建物は迷路のように入り組んでいる。
「すごっ……」
 港への停泊をすませ、一週間ぶりに陸地を踏みしめたホロウは、生まれて初めて見る人の数に度肝を抜いてしまっていた。
 この世界にこんなにたくさんの人間がいたなんて……。
 右を見ても、左を見ても人、ヒト、ひと。
 上を見ても、下を……いや、さすがに下にはいないか。
「服装を見れば誰がどこから来たのかはだいたいわかるよ」
 隣にカジキがいた。
 そういえば久しぶりに声を聞いた気がする。
「ターバンは砂漠地帯の帽子だし、パレオは南国の衣装だ。みんな個性的だろ?」
 そういう彼は自分より頭一つ分以上でかい剣と馬鹿みたいに長いマフラーを巻いている。
(あんたの格好の方がよっぽど目立つわよ……)
「カジキ、ガスパのとこ行くのか」
 積み荷下ろしを指示していた船長が振り返り、カジキに声をかける。
「まあね、そのために来たんだし」
「自力でたどり着くのは無理だぜ。ほら、こいつを持って行きな」
 船長は腰に下げていた荷物袋から丸まった羊皮紙を取り出した。
 果たしてそれは街の地図だった。
 例のガスパとかいう科学者の家までの道筋が書かれている。
「あんた、行ったことないの?」
 知り合いだと聞いていたのだが。
「はじめてさ」
「知り合いだって聞いたわよ」
「ああ、たまに手紙を。会ったことはないね」
「……」
 エゾキアの街は沿岸部から中心に向かって盛り上がるような造りになっている。元の地形をそのまま利用しているのだ。
 なだらかな斜面となった中央道を進むと、様々な出店の姿を見ることができる。元気の良い声が飛び交い、膨大な量の金が一日の間に動くのだ。
 ホロウは店先にならんだ見たこともない色とりどりの果実を見てお腹を鳴らした。
 ここのところ、食べない方がマシな食事しか取っていなかった。一目見ただけで「美味しい」とわかる果物を前にしては、とてもではないが我慢がきかない。
「ね、ねえちょっと待って」
 先に行くカジキを引き止める。
「あたし、ちょっと買って――」
 くるから、と言いかけたホロウの口が固まった。
「ん、なに?」
 とぼけた口調でそのように言うカジキの手には、かじられた跡のあるリンゴが握られていた。
(……こいつ!)
 目を疑うような早業だ。
 本当にいったいいつ、どのタイミングで手に入れたのか。
 軽い怒りと不満を覚えつつ、ホロウは輪っかの形をした不思議な果物を手に取った。
「これ、なんていうの?」
 見たことのない果実だ。
 店主に訊ねると、ターバンを巻いた商人はニッコリとして大口を開けた。
「《シャリン》だよ。馬車の車輪そっくりだろう? おじさん国じゃ薬なんだ。ほら、一つ食べてごらん」
 促されるままに黄緑色の果物を口に運ぶ。
「んん!」
 と図らずも唸ってしまう。
 皮の部分がパリッとし、中は綿のようにモチモチで甘かった。たまに硬い感触があるのは種だろう。
「ほひひい」
 口に食べ物が入ったままなので上手くしゃべれなかった。
「だろうだろう。体の中の毒素を流しだしてくれるありがたい食べ物だ。食べ過ぎると気分が悪くなるから気をつけなよ」
 ホロウは銅貨二枚でそのフルーツを四つももらってしまった。
 カジキは「そんなにいらないだろ」と言っていたが、美味しいのだから仕方がない。この街を出たら、次はいつ食べられるのかわからないのだ。
 ホロウたちは大通りから石造りの小道に入って行く。もうしわけ程度の階段が頻発するのは、元々の地形が海岸から続く斜面だったためだろう。
「ちょっと君たち」
 赤銅色のカッチリとした身なりをした衛兵に声をかけられる。
「この先は治安が良くないから気をつけなさい」
 エゾキアは多くの人々が行き交うだけあり、少し裏に入ると闇取り引きの現場になっていることも多い。そういった市場では表で売り買いのできない危険な武器や毒物、あるいは盗品が法外な値段で取引されているのである。
「……ま、あんたには関係ないか」
 悠々とした態度で歩みを淀めることのないカジキを見やり、ホロウは小さくため息をついた。
 どんな悪党よりもはるかに危険なのだから。
「ここだな」
 石畳を踏みしめ、カジキは階段の下を覗き込んだ。
「ここって……え、地下!?」
 地図に記されていた場所、そこはもはや建物でさえなかった。
 道の行き止まりにポッカリと口を開けた地下への階段、その先には鋼鉄製の扉が門番のごとく控えている。
「変人科学者だってさ。実験材料にされないように気をつけろよ」
 冗談まじりに彼はそういったが、このおどろおどろしい空気の前ではあまり笑えるものではなかった。
 カビの生えた石の階段を下り、赤錆の浮いた鉄の扉を叩く。ドアにはノッカーや呼び鈴さえもついていなかった。
 二回、三回、叩く。
 ドンドンッ、ドンッ。
「……いないのかしら」
「ちょっと失礼」
 カジキはホロウを後ろに押しのけると、鎧のついている方の足を振り上げた。
「あっ、ちょっとまさか!」
 先の行動を悟ったホロウが止めようとしたが、間に合わない。
 轟音が響き渡り、衝撃が駆け抜ける。
 カジキが鉄の扉を蹴り破ったのである。
 扉は蝶番ごと引き裂かれて、部屋の中の壁にめり込んでいた。
「…………どんな馬鹿力してんのよ」
 まるで強盗だ。
 自分がとんでもない犯罪者の片棒を担いでいるような気分に陥ってしまうが、おかまいなしにズカズカと入って行ってしまうカジキを前にしてはそのような感傷を抱いている暇さえ与えられはしなかった。
「おーい、邪魔するよー!」
 邪魔をするとはまさしく言葉通りの意味だ。一切の危機感も緊張感も持ち合せないカジキが、堂々とした歩みで階段を下って行く。
 部屋の中はまるで悪の秘密結社のアジトのような装いだった。
 いたるところに用途不明の実験器具が置かれており、何かの設計図らしきものが散乱して机の上や床を覆い隠している。
 よくはわからないが、あまり不用意に手を触れない方が良さそうだ。
 ノコギリ、トンカチ、作業台に万力……これらは何かを組み立てる時に使うのだろうか。
 ホロウが部屋の中をキョロキョロと見回していると、不意に何か重たい物が動き出すような音が聞こえて来た。
「おっと」
 ガシャンッ、と金属音を響かせ、天上から落ちて来た幾本もの金属棒がカジキとホロウを取り囲んだ。
「えっ、なにこれ」
 ホロウは棒を手にしてガシャンガシャンと動かす。
 が、それはびくともしない。
 そこでようやく気がついた。
 二人を包み込んだ物……それは鉄の檻だったのだ。
「ひーっひっひっひ! 盗人め、ざまあみろ! ワシの研究を盗みに来おったようじゃが、そうは問屋が卸さんぞ!!」
 次いで、部屋の隅からやたらと威勢の良い老人が現れた。長らく手入れのされていない白髪に白い顎ヒゲ、そして汚らしいローブ。
 この男が件の変人科学者なのだろうか。
 どちらかというと悪の魔法使いに見えるのだが……。
「なんじゃ、まだガキか! ったく、最近の子供はどういう躾をされておるんじゃ!」
 ガミガミと怒り狂いながら、彼は持っていた定規をブンブンと振り回している。
「なあ爺さん、爺さんがガスパって科学者なのかい?」
 一方でカジキの表情は相変わらずだ。
 檻に閉じ込められているのに、人を舐めきった態度には際限がない。
「ん? なんじゃ? 命乞いかぁ? 聞こえんの〜、最近めっきり耳が遠くなっての〜! くぁーっかっかっか!!」
 船旅の間ずっとついて来ていたアホウドリたちを思い出させる腸が煮えくり返りそうな馬鹿笑いだった。イラッとくる。
「マジで? しゃーないなー」
 カジキがニヤリと不敵な笑みをこぼす。
 彼は檻の格子を両手でガッシリとつかむと、そのまま鉄棒をへし折り、檻からニュッと顔を出した。
「これで良く聞こえるだろ?」
「……………………」
 老人の口があんぐりと開く。完全に顎が外れていた。