〜新たなる旅へ〜

 

 コカトリスから抜き取った大量の血は、酒樽に入れられてエゾキアにあるガスパの研究室へと運ばれた。
 コカトリスを退治したと聞いたときのガスパは驚いたような、あるいは興奮しきった様子をみせていたが、知的好奇心よりも血清作りを優先させてくれたのはホロウにとっては喜ばしいことだった。
 結果から言って、血清は上手くいった。
 最初に毒を受けた若者は、進行が酷かったため多少の後遺症が残るかもわからないと医者は言っていたが、それでもすでに歩けるまでには回復していた。
 もちろん、村の人たちにも血清は行き渡り、そちらは全ての人の症状が全快したという。
 そしてコカトリスの死体だが……これはその後、エゾキアの衛兵が回収して行った。なんでも国の専門機関に研究資料として提出されるのだと言う。その際、彼らはかなりの枚数の金貨を村に置いて行ったらしい。カジキへの報酬もそこから払われることになったのだが、こちらはまだ回収に行けてはいなかった。というのも、ホロウたちは未だにエゾキアの町に滞在していたからだ。
 それは大怪我を負ったカジキの回復待ち……ではなく、筋肉痛で動けなくなったホロウの体が治るのをカジキが待っていたためである。ちなみに、カジキの怪我はその日の内に治ってしまっていた。
 体の不調が回復するまでの間、ホロウはガスパの研究室にハンモックを吊るしてそこで横になっていた。
 寝心地は最悪。
 船旅の再来である。
 まず、単純に寝づらい。一応敷き布団はあったが、所々ハンモックの縄が食い込んでくるのだ。
 次にうるさい。ガスパは一日中ルアーブレードで遊んでいるし、カジキは研究室の巨大人形相手に格闘術の練習をしていたからだ。
 最後に飯がマズい。せっかく港町にいるというのに、その旨味を鱗一枚分さえも活かすことのできない料理音痴の集まりだった。ガスパが料理などできないことは想像がついていたが、まさかカジキまで料理の「りょ」の字も知らないとは思いもしなかった。今まで旅の道中で何を食って来たのかと問いただしたところ、彼は「主に焼き肉」としたりげな顔で臆面もなく言って退けたのだ。
「だあああああっ、貸して! もうあたしがやる! あんたらは包丁いじるな!!」
 こうして、治る怪我も癒えず、気がつけばコカトリスを倒してから四日が過ぎていた。
 そして五日目、あまりにも到着が遅いので、ついにはオレアンの村長自らガスパの研究室へと報酬を持ってきてしまった。
「いえ、それほど酷い怪我ではなかったようで安心しました」
 彼は自分の家族ーー息子夫婦と孫を同行させていた。彼らも村長に倣い、感謝の気持ちを述べる。
「おねーちゃんありがとー」
 この小さな女の子は、どうやらあのウサギのぬいぐるみを落とした子のようだった。目立った怪我もなさそうなので一安心だ。
「ウサギさんもありがとって言ってるー」
 そのように屈託のない笑顔を浮かべる少女を見ると、ホロウの心に巣食っていた鬱屈とした気分も晴れ渡って行くかのようだった。
「うんうん、よかったわね」
 ホロウも女の子の視点に合わせてニッコリと微笑んだ。
 ホロウは横目でチラリとカジキの様子を見た。
 彼は何の興味や感慨もなさそうに、運動後の読書に耽っていた。
 自分が助けた子がお礼を言いに来たのだから、少しくらいは気にしてあげてもいいのになと思ってしまう。
 まあそれも、彼にいわせれば「ただのついで」なのだろうが。
「お姉ちゃん、またお話聞かせてー」
 今にも踊り出しそうにキラキラと目を輝かせながら……女の子は奇妙なことを口走った。
「え……話?」
 ホロウは彼女が何のことを言っているのかわからずに、何度か目をしばたかせる。
「こ、こらっ、このお姉ちゃんは違うって言ったじゃないか」
 父親らしき男が慌てて女の子を諭していたが、子供は「いやいや」をするように髪を振り乱した。
「やだ! お話聞きたいもん! きーきーたーいー!」
 両親は困り果ててしまい、村長も苦笑いを隠し切れていなかった。
「じゃかーしい!! 騒ぐんなら外でやらんかー!!」
 ついに耐えきれなくなったガスパが物差しを振り上げながら憤慨し出す。小さな子相手にも大人気のない老人だ。
「ごめんねウチの子が。気にしないでもらえると嬉しいんだけど」
 父親は妻に子供の面倒を頼むと、申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「あ、いや……でも、お話ってなんのこと?」
 覚えている限り、あの子の前で話しをした覚えはないのだが。
「前に君そっくりな女性が村に立ち寄ってね。歳は全然違うんだけれど、まだ小さいから区別できないみたいで……」
「なるほど、そういうことですか」
 そういえば、あたしも小さいころは近所のお兄さんお姉さんの顔が区別できなかったものだ。少し体の大きな人は、みんな大人と同じように思えていたからだ。
 ……今のあたしは、あのころ憧れた先輩たちのようになれたのだろうか。
 そしてこれから、偉大な父のようになれるのだろうか。
 ホロウはそのような郷愁に駆られながら、遠く離れた故郷の情景に思いを馳せるのだった。
「なあ、おしゃべりもいいんだけどさー」
 横槍が入る。
 誰が?
 訊くまでもなくカジキだ。
 彼はもはや定位置と化していた杉の木で出来たの机から飛び降りると、人を食った笑みを左目だけに宿しながら話を続ける。
「そろそろ出発したいし、お代だけ先にもらってもいいかい?」
「あんたねぇ……」
 苦言の一つでも言ってやろうとすると、しかし村長は頬に大きくしわを作って笑った。
「はっはっはっ!すまんすまん!君には一番世話になったんだからな」
 彼は懐から巾着を取り出すと、それごとカジキに手渡した。
 だが、カジキはその重みに違和感を覚えたようで、紐を解いて中身を確認し始めた。
 まさか支払いが少ないとでも言い出すのだろうか。
 そんなケチをする人たちのようにも見えなかったが……。
 ホロウが村長を見やると、彼は白い眉を深く弧の字に丸めていた。
「君がいなければ私は愛する家族と、仲間たちを失っていた。それはせめてもの気持ちだよ」
 カジキが受け取った硬貨は、予定していた報酬の倍以上の金貨だった。
「やったじゃない! これだけあれば当分困らないわ」
 これにはさすがのカジキも気分を良くするだろう。
 ホロウはそのように踏んで声をかけた。
 だから不意をつかれた。
 カジキは顔を伏せたまま、肩だけを怒らせていた。
「ふざけんなッ!!」
 そして、叩き付けるかのような怒気を放つ。
「俺は金貨15枚で手を打つって言ったんだ! なんでこんな余分に出てくんだよ! 金っていうのはな、こんなホイホイ他人にやっていいもんじゃねえんだ! 生きるために必要なもんなんだ! テメーはこれでさっきの子に美味い菓子や奇麗な服でも買ってやればいいんだよ! わかったらさっさと出てけッ!!!」
 カジキは中の金貨を15枚だけ抜き取ると、後は巾着ごと叩き返してしまった。
 村長たちは面食らっていたものの、憤慨するカジキは取りつく島もない。
 ホロウは仕方なく彼らに頭を下げ、お引き取り願ったのだった。
「……」
 研究室に戻ってくると、カジキはテーブルの上に行儀悪く寝転がったまま、ぼんやりと鈍く重い色の天井を見つめていた。その片方しか見えない瞳は何かを言いたげにしていたが、口元は固く閉じている。
「あんたは本当に……」
 ホロウは小さくため息をつくと……しかしなぜか怒りきれない感情を抱いた。
「くれるっていうんだから、もらっておけばよかったでしょ?」
 苦笑しながら言うと、彼は天井を向いたまま目蓋を閉じて答える。
「……良くはないさ。これからあの村はもっと金が必要になる。本当に森の開拓が始まれば、野生動物だって出てくる。そうなったら腕の確かな用心棒を雇う必要だってある。あのオッサンたちはそこのところを理解してないんだよ。これだから素人は困るよな。ホント、ムカつくぜ」
 困った困ったと語るカジキの声色は、先ほどとは打って変わって穏やかなものだった。
 やはり、とホロウは確信した。
 やはり、今のは演技だったのだ。
 どんな時でさえ余裕を崩すことのない彼が、あんなくだらないことで感情を昂らせるのはどう考えてもおかしいと思ったのだ。
 カジキは多分、彼らの思いを汲み取った上でああいう行動に出たのだろう。
 お礼などという一時の感謝の気持ちで、雇った相手に必要以上の金銭を支払うことのないように、と。
 確かにここで注意をされなかったら、彼らはこの先、村を発展させるために雇う人たちに必要以上の報酬を払い続けるだろう。それではいずれ立ち行きが行かなくなることは見えていた。
 彼はそれを伝えたかったのではないだろうか。
「……何考えてんだか知んないけどさー、考え過ぎだから」
 気づくと、カジキの左目がホロウに向けられていた。
「はいはい、そういうことにしておくわ」
 ホロウは相手の弱みを握った気分に浸りながら笑った。
「おいカジキ! ちょいとこっちに来んか」
 ガスパから声がかかったのはその直後のことだった。
 彼は作業台の前で新品同然になったピカピカのルアーブレードとにらめっこをしていた。どうやら何か美味くない事態とぶつかっているようだ。
「どうした爺さん?」
「む、本体の方は完璧じゃ。全ての部品を新しいのと交換したからの」
 それはそうだ。
 ルアーブレードを渡した日からすでに一週間近くが経っていた。いいかげん仕上げてくれないとホロウの身が持たない。主に生活水準の劣悪さ的な意味で。
「おいおい、俺の目にはそうは見えないぜ? ブレードがボロボロじゃんか」
 カジキが目を付けた通り、ルアーブレードの巨大な刃はここに運び込まれた日と同様、あちこちが刃こぼれしていてとても使い物になるとは思えない状態だ。
「黙らんか! じゃから本体は完璧じゃと言っただろう。ブレードの方は……すでに頼んでおる」
 そこまで言うと、ガスパは巨大な羊皮紙を作業台の上に広げてみせた。
 それはこの近辺の地図だった。エゾキアや、この前訪れたオレアンが載っている。こうして地図を見ると、この辺りがかなりの山々と深い森に囲まれていることがよくわかった。
「……ここを……こう行って…………ここじゃ」
 ガスパの骨のような指が地図上を這い、川を跨ぎ、森を超えて、険しい山の麓を指し示していた。
「……はい?」
 と、間の抜けた声を発してしまったのはホロウだ。
「じゃから、ここをこう行って……こうじゃ」
 同じ動作をもう一度繰り返すガスパ。
「え、ちょ、ちょっと待って。…………え? つまりどういうこと?」
「まったく! 同じことを何度も言わせるとは、これじゃから馬鹿を相手にするのは疲れるわい! つまり、ここの町の鍛冶屋に刃を頼んでおるから、取りに行けと言っておるんじゃ!!」
「馬鹿はあんただッ!!」
 ホロウは作業台をひっくり返しながら激昂した。
 火事場の馬鹿力というやつか、本当にひっくりかえってしまった。
 ついでにガスパもひっくり返って腰を抜かしている。
「しゃ、しゃーないじゃろ。だってワシ、鍛冶なんて出来んもん! このブレードじゃってそこの鍛冶屋に特注でこしらえてもらったんじゃし……」
 急にしおらしくなりながら、言い訳をするように語る。
 ホロウが「どうする」という視線でカジキを見やると、彼はボリボリと頭を掻きながら「気は乗らないが仕方がない」という顔を見せた。
「金はもう払ってんだろ?」
 カジキが言っているのは最初の日に払った金貨のことだ。
「も、もちろんじゃ。お前さん達が着くころには出来上がっているじゃろう!」
 ここぞとばかりに得意げに立ち直ってはいるが、結局は他人に丸投げしているだけだ。しかも今日まで何の事前説明もなかったし、挙げ句、こんな遠く離れた場所まで行かされるのかと思うと、気分はすでにげんなりし始めていた。
「ねえ、あたし、町を出る前に一回で良いからちゃんとしたベッドで寝たいんだけど?」
 すがるような視線でカジキに頼み込む。
「あきらめろよ。野宿だって案外楽しいもんだぜ? いつ野犬に襲われるかわからないスリルもあるしな」
「スリルも楽しみもいらないの。わかる? 安眠に必要なのは快適さよ」
 このような力説も虚しく、ホロウはこの日の内にエゾキアを後にすることとなったのである。

第2章 終わり