〜リヴァイアサン〜
その竜と出会ってしまったのなら、精々祈ることだ。
どうか彼が食事の後であってくれますように、と。
――冒険家ゲオルグ・チェレスコフ著『バンデラ探険記』――
「うおおっ、これは……!」
船を漕ぐ一人の男が暗雲をにらんで慄いた。
男とその娘――二人の前には巨大な首が突き出していた。
濃淡色の鱗を持つ巨大な首だ。
人間など五~六人まとめて丸飲みできてしまいそうな太い喉が上下に揺れる。まさに今、唾を嚥下したかのように。
娘――ホロウ・ライトは自身の血の気が引くのを感じながら、青ざめた顔を仰いだ。そして合ってしまった。はるか高みから自分たちを見下ろす、縦に長い爬虫類の瞳孔を。
鱗がガチガチとなる。
海面が吹き上がり、水しぶきが小舟を襲う。
「逃げろホロウ!」
男が娘を突き飛ばすと、ホロウは冷たい海水へと落ちて行った。
その刹那だった。
海面へと向かっていく水泡が爆発した。
突如、嵐の中に放り込まれてしまったかのように、ホロウの体は海中でもみくしゃにされた。上下が逆さまになり、どちらが海面ともしれない。
縦横無尽に振り回そうとする暴力的な海流が落ち着き、ホロウはようやく水の牢獄から顔を出した。
「ぷはっ!」
と口を開き、何度も荒い呼吸を繰り返す。
そして気がつく。
目の前から小舟と怪物が消えていることに。
激しい波に揺さぶられ、小麦色の長い髪が海面に漂う。
ホロウは自身の髪をかき分けながらなくなってしまった小舟――そして父の姿を探した。いつまた、あの巨大な化け物が襲ってくるともしれない恐怖に怯えながら。
ふと、何か大きな影が離れていくのが海の中に見えた。
それはあの怪物なのだろうか。
ブクブクと、気泡が泡立つ。
白い泡のラインが黒い影へと繋がる合間に、水中から飛び出す物体があった。それは砕け散った木片だった。
ホロウがその正体に気づくには一秒とかからなかった。
なぜなら、木片には白い銛(もり)を持った女神の絵が描かれていたからだ。
小さなころに描いた幸運のまじないだ。船に漁を司る女神の絵を描くと、どのような嵐の中でも必ず帰り着くことができるという。
波間に漂う木片は、今まで彼女の乗っていた小舟の残骸だった。
「お父さん! どこにいるの!?」
胸の内に潜ませていた不安が溢れ返り、ホロウは大声をあげた。
冷たい水の中をさまよい、見えない父親の姿を懸命に探して回る。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ホロウの家は漁によって生計を立てていた。父親は町一番の猟師で、手にした銛はさながら神話の技のように海獣を捕らえた。母は幼いころに亡くしてしまっていたが、そのように勇敢な父親を持ったホロウはいつでも誇り高い気分で満たされていた。
それがいけなかったのだろうか。
この日、ホロウは巨大な海獣がこの海域に出没するだろうことを知っていた。
港町ディーミアは多くの情報が舞い込む場所でもあった。くだらない噂話から、領主が横領している宝石の数まで。
そんな中に、一つの話題があった。
それは大陸の端からディーミアに向かう船が、次々と巨大な海の獣に襲われているという噂だった。
話の内容では、その獣は徐々にこの港町へと近づいて来ているということだった。ひょっとしたら、今日辺りはいつも自分たちが漁をしている海域に入ってくるかもしれない。
そのように考えたホロウは、父親には海獣のことを秘密にして漁に出たいと言った。
しかし、
『駄目だ』
それが父親の答えだった。
『今日は漁の日じゃない。それに雲行きも良くない』
ホロウは適当な言い訳を考えて父親を説得した。何と言って納得させたのかは覚えてさえいない。それほど適当な言葉だった。
……そして、あの巨大な生物と遭遇したのだ。
「お父さん……」
寂しげなホロウのつぶやく声が、虚しく波に飲まれていく。
来るべきじゃなかった。
いくら悔やんでも悔やみきれない。
ホロウは父親のことを英雄だと思っていた。町一番のヒーローである父の手にかかれば、どのように凶暴なモンスターも一捻りなのだと。そして町の人々はますます父を尊敬するようになるのだ……と。
でも、実際は違った。
あんな天を仰がなければならないような化け物相手に、ただの人間が何をできるというのか。
「……っ!」
そのときだ。
ホロウは泡で白く濁った海面の先に、父親の姿を見た。
自分と同じ小麦色の髪に、日に焼けた茶色い肌、鍛え抜かれた上半身――それは間違いなく父親の後ろ姿だった。彼は海面から頭を出し、波間に浮かぶ板きれにしがみついているようだった。
「お父さんッ!」
ホロウは無我夢中で彼の下へと泳いだ。
謝らなければならない。
あの怪物のこと。
自分勝手な意見で海に連れて来たこと。
そして、もう二度とこんな馬鹿なことをしないと誓うのだ。
ホロウは彼の下へとたどり着くまでの間に、口の中がしょっぱくなるのを感じていた。それは海水のしょっぱさだったような気もするし、あるいはもっと別の何かが口に入り込んで来ていたのかもわからなかった。
「お父さん! 大丈夫!? 怪我は!?」
ホロウは父の隣に着くと、彼のがっしりとした肩を揺すった。
「……」
しかし、父は何も答えなかった。
ただ黙し、じっと顔を伏せている。
「お父さん……?」
ホロウは不思議に思い、彼の顔を覗き込もうとした。
――ボコリッ。
その矢先、彼女の背後からまたもや何かが浮き出てきた。
何か大きな……しかし、先ほどの怪物ではなく、ホロウよりもほんのわずかばかりに大きな影。
「あ……あああ……」
振り返り様にそれを直視してしまったホロウは恐怖に口元が戦慄いた。
頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。
彼女が見たもの、それは―― 胴体から真っ二つに千切れた父親の下半身だった。
船を漕ぐ一人の男が暗雲をにらんで慄いた。
男とその娘――二人の前には巨大な首が突き出していた。
濃淡色の鱗を持つ巨大な首だ。
人間など五~六人まとめて丸飲みできてしまいそうな太い喉が上下に揺れる。まさに今、唾を嚥下したかのように。
娘――ホロウ・ライトは自身の血の気が引くのを感じながら、青ざめた顔を仰いだ。そして合ってしまった。はるか高みから自分たちを見下ろす、縦に長い爬虫類の瞳孔を。
鱗がガチガチとなる。
海面が吹き上がり、水しぶきが小舟を襲う。
「逃げろホロウ!」
男が娘を突き飛ばすと、ホロウは冷たい海水へと落ちて行った。
その刹那だった。
海面へと向かっていく水泡が爆発した。
突如、嵐の中に放り込まれてしまったかのように、ホロウの体は海中でもみくしゃにされた。上下が逆さまになり、どちらが海面ともしれない。
縦横無尽に振り回そうとする暴力的な海流が落ち着き、ホロウはようやく水の牢獄から顔を出した。
「ぷはっ!」
と口を開き、何度も荒い呼吸を繰り返す。
そして気がつく。
目の前から小舟と怪物が消えていることに。
激しい波に揺さぶられ、小麦色の長い髪が海面に漂う。
ホロウは自身の髪をかき分けながらなくなってしまった小舟――そして父の姿を探した。いつまた、あの巨大な化け物が襲ってくるともしれない恐怖に怯えながら。
ふと、何か大きな影が離れていくのが海の中に見えた。
それはあの怪物なのだろうか。
ブクブクと、気泡が泡立つ。
白い泡のラインが黒い影へと繋がる合間に、水中から飛び出す物体があった。それは砕け散った木片だった。
ホロウがその正体に気づくには一秒とかからなかった。
なぜなら、木片には白い銛(もり)を持った女神の絵が描かれていたからだ。
小さなころに描いた幸運のまじないだ。船に漁を司る女神の絵を描くと、どのような嵐の中でも必ず帰り着くことができるという。
波間に漂う木片は、今まで彼女の乗っていた小舟の残骸だった。
「お父さん! どこにいるの!?」
胸の内に潜ませていた不安が溢れ返り、ホロウは大声をあげた。
冷たい水の中をさまよい、見えない父親の姿を懸命に探して回る。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ホロウの家は漁によって生計を立てていた。父親は町一番の猟師で、手にした銛はさながら神話の技のように海獣を捕らえた。母は幼いころに亡くしてしまっていたが、そのように勇敢な父親を持ったホロウはいつでも誇り高い気分で満たされていた。
それがいけなかったのだろうか。
この日、ホロウは巨大な海獣がこの海域に出没するだろうことを知っていた。
港町ディーミアは多くの情報が舞い込む場所でもあった。くだらない噂話から、領主が横領している宝石の数まで。
そんな中に、一つの話題があった。
それは大陸の端からディーミアに向かう船が、次々と巨大な海の獣に襲われているという噂だった。
話の内容では、その獣は徐々にこの港町へと近づいて来ているということだった。ひょっとしたら、今日辺りはいつも自分たちが漁をしている海域に入ってくるかもしれない。
そのように考えたホロウは、父親には海獣のことを秘密にして漁に出たいと言った。
しかし、
『駄目だ』
それが父親の答えだった。
『今日は漁の日じゃない。それに雲行きも良くない』
ホロウは適当な言い訳を考えて父親を説得した。何と言って納得させたのかは覚えてさえいない。それほど適当な言葉だった。
……そして、あの巨大な生物と遭遇したのだ。
「お父さん……」
寂しげなホロウのつぶやく声が、虚しく波に飲まれていく。
来るべきじゃなかった。
いくら悔やんでも悔やみきれない。
ホロウは父親のことを英雄だと思っていた。町一番のヒーローである父の手にかかれば、どのように凶暴なモンスターも一捻りなのだと。そして町の人々はますます父を尊敬するようになるのだ……と。
でも、実際は違った。
あんな天を仰がなければならないような化け物相手に、ただの人間が何をできるというのか。
「……っ!」
そのときだ。
ホロウは泡で白く濁った海面の先に、父親の姿を見た。
自分と同じ小麦色の髪に、日に焼けた茶色い肌、鍛え抜かれた上半身――それは間違いなく父親の後ろ姿だった。彼は海面から頭を出し、波間に浮かぶ板きれにしがみついているようだった。
「お父さんッ!」
ホロウは無我夢中で彼の下へと泳いだ。
謝らなければならない。
あの怪物のこと。
自分勝手な意見で海に連れて来たこと。
そして、もう二度とこんな馬鹿なことをしないと誓うのだ。
ホロウは彼の下へとたどり着くまでの間に、口の中がしょっぱくなるのを感じていた。それは海水のしょっぱさだったような気もするし、あるいはもっと別の何かが口に入り込んで来ていたのかもわからなかった。
「お父さん! 大丈夫!? 怪我は!?」
ホロウは父の隣に着くと、彼のがっしりとした肩を揺すった。
「……」
しかし、父は何も答えなかった。
ただ黙し、じっと顔を伏せている。
「お父さん……?」
ホロウは不思議に思い、彼の顔を覗き込もうとした。
――ボコリッ。
その矢先、彼女の背後からまたもや何かが浮き出てきた。
何か大きな……しかし、先ほどの怪物ではなく、ホロウよりもほんのわずかばかりに大きな影。
「あ……あああ……」
振り返り様にそれを直視してしまったホロウは恐怖に口元が戦慄いた。
頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。
彼女が見たもの、それは―― 胴体から真っ二つに千切れた父親の下半身だった。